永川辰男と伯家神道

このページでは、私、永川辰男と伯家神道の関わりについて記させていただきます。

私、永川辰男と伯家神道

初めて私が伯家神道を修行したのは昭和53年、26歳の時です。当時の横井宮司より宮司命令として修業したのが始まりです。当初修行したのは京都で行いました。大津から京都市西区の梅宮神社側まで、1週間に1回、1時間かけて通いました。

近江神宮と伯家神道並びに中村新子との関わりは初代平田宮司からです。神職経験のない平田宮司は神職の心構えとして、和学教授所神事長中村新子より伯家神道の指導を仰ぎます。その関係もあって昭和45,6年前後、中村新子は近江神宮の社務所で寄宿されておられました。

その時度々訪ねて来ていたのが画家の由利渓です。生前の由利とは何回か話したことがありますが、修行に来たのではなく相談事で伺っていたようです。今思えば、皇室と国体、伯家神道の存続を心配しておられた憂国の士でもありました。おそらく中村新子の影響が多大にあったものと思われます。

昭和56年に、新たに近江神宮で斎修会を行うのには、一つは初代宮司平田貫一と伯家神道との関わりがあります。もう一つは、由利渓が憂いていたように、現実的に伯家神道の伝承とお道の継承にありました。皇室へ伯家神道をお渡しすることは、和学教授所の関係者並びに高浜清七郎からの長年の夢でもあります。

祝部殿再興の運動は戦前にもありました。昭和10年白峯神宮宮司石井鹿之助と図り、祝部殿再興の話と十種神寶御法の修業道場建設の運動です。近衛文麿公に祭祀調査機関を提唱して建白書を提出。神祇院の設置を見たのですが、時に終戦と重なりマッカサー指令により廃止のやむなきに至りました。果たせえなかった思いをのせて近江神宮で開催したのが事の起こりです。

近江神宮で行うに際し、新宮宮司と安見晴子に相談するのですが良い返事をもらえません。そこでやむなく大和本学の小原昭子にお願いすることになりますが、新宮宮司からは伯家神道の名前は使わないで欲しいとの注意を受けます。

やむなく使用した名前が「有栖川宮家相承随神道」から発足します。それが近江神宮で斎修会を行う始まりです。有栖川の名をお借りしたのは、慶応4年神祇官が復活した時に神祇事務局督となられたのが有栖川宮幟仁親王と白川資訓です。又、有栖川宮家は近江神宮総裁高松宮家が継承されている宮家でもあります。

今泉定助

1863年生誕~1944年没。宮城県白石市出身。神宮奉賛会会長。日本大学皇道学院院長。東洋文化研究所講師。皇典講究所理事。(財)皇道会創立、総裁就任。東京大学文学部古典講習科卒。

本居宣長以来の国文学神道論に、実践に基づく信仰的な神道論を加えて「皇道」と呼び、それを国民の指針として普及する活動に尽力しました。日本を皇道精神に基づいて国家の再建を講義しました。「憂国概世の神道思想家」と言われ、当時の軍部並びに歴代首相に多大なる影響を与えました。

今泉定助の活動

今泉翁は川面凡児翁の実践的神道論に影響を受け、本居宣長以来の国文学神道論に実践的神道論を加えて「皇道」と呼び、昭和15年に(財)皇道会を設立します。

神道は理論・机上論でなく実践にあると言う考えをもとに、当時の軍部の講習会で講演しました。今泉翁は、「大祓は行事であるのに、行事を捨てて文献たる祝詞のみを解釈している為に、大祓の真の精神はつかめない」と述べています。

大祓の根本は神であり、神人合一が祓いの目的であるとしています。玉鉾会で行っている呼吸法・古醫道・霊動法・言霊学・年中行事等は、伯家神道を修行する事より体得した実践的神道論にあります。

平田貫一

1883年生誕~1971年没。初代近江神宮宮司。鹿児島県さつま町出身。東京帝国大学法科学部政治学科卒。高等文官試験に合格。農商務省に入省。

札幌鉱務署鉱政課長を務めた後、内務省に転じ、福岡県内務部長を歴任後、昭和5年神宮皇學館館長(学長)に就任。

昭和15年11月7日御鎮座の近江神宮宮司に就任。戦後、神社本庁事務局長(神社本庁総長)に2回就任。昭和37年、日本で唯一GHQによって廃校とされた新設皇學館大學初代学長となりました。

平田貫一の活動

神宮皇學館館長(学長)であった平田貫一は、近江神宮宮司になるに当たり、神道修行の始めとして中村新子に和学教授所の“お道の行法”を修行します。

そのこともあり、横井宮司は近江神宮にもその神事を残すべく斎修会を行うに当たり、私に白羽の矢が当たり修行することとなります。

一つにはこのお道が宮中に戻せないものかと宮内庁の知人、職員に働きかけましたが、最終的に一旦民間に下りたものは皇室に戻すことは不可能であるということを覚らされました。

横井時常

1905年生誕~1998年没。2代近江神宮宮司。尾張徳川家四家老の一人横井家の藤ケ瀬横井の嫡男として誕生。横井宮司が戦後混乱の神社界の中で靖国神社を今に残した功績は多大なるものがあります。靖国神社の歴史と共に後世まで語り継がれるほどの一大事でもあります。

内務省神祇官として全国神社界の指導を行っておられましたが、筑波氏との縁を受けて靖国神社権宮司を拝命します。靖国神社権宮司であった横井は、終戦後GHQ(連合国軍総司令部)が日本に滞在して戦後処理をしている時に、靖国神社の危機に直面します。

GHQは国家神道と言う造語を作ります。そして日本人の精神的支柱である神道、および神社の最初のやり玉が靖国神社でした。戦争で亡くなった軍人を祀る宗廟たる靖国神社は敵視されたのです。

その時のことを横井宮司は「日本の神とゴッド」をどのように話してよいのかと苦悩した事を度々私にお話しされました。

「神は世界どこの国においても全ての宗教の根源であるとして…キリスト教などの他宗教との共存共栄を目指す世界宗教としての神道に生まれ変わる」

として、これより他宗教を受け入れます。俗に横井神道とも言われる起因はここに生まれたものと思っています。

昭和23年靖国神社退職後、広島護国神社宮司となられ、その後近江神宮2代宮司として就任します。

靖国神社靖国神社

新宮幸勝

1902年生誕~1993年没。横井宮司と和学教授所理事である長等神社の新宮宮司とは同級生です。大卒後、若かりし頃の横井宮司は今泉翁、川面翁の指導を受け、新宮宮司は中村新子に和学教授所で学ぶ事になります。

近江神宮で伯家神道斎修会を開催するに当たり、先ず相談を掛けたのが新宮宮司、安見晴子女史です。長等神社へは10分も掛からない場所にあるので、度々伺い修行致しました。その時に高浜浩氏も新宮宮司に修行を習いに来られていました。

当時は会社勤めをなされていて伯家神道行法を良く存じておられないようで、お行をされるでなく祓詞を唱えることもなく、新宮宮司の行う行法を部屋の隅に座って見ておられました。実際に当時は知らなかったようです。

私が尋ねると、高浜氏は叔母中村新子女史がやっているのを見ているだけで今は忘れてしまいました、と言われておられました。

新宮宮司は80歳まではお行を行ってもしっかりして動き回っておられましたが、晩年は足もおぼつかなくなり、目を患われ識別すら出来ない状態で、それに老人性痴呆が入ってきていました。

早くにも習っていた私には、和学教授所の系統が途絶えると言われ、それは熱心に特別に教えて頂きました。同じく門人の人達と言っても皆75歳以上です。当時、神社界にも声かけしましたが誰もする人がいないので、その分色々と細かに丁寧に教えて頂きました。

新宮宮司の元で、和学教授所を破門された人の別系統ではなく、「将来の為にも正当な和学教授所のお道の流れを踏み、後世に継承して行きなさい」と新宮宮司に温かいお言葉を頂き、秘伝伝授の拍手降神三種以上の拍手の許しを頂きました。和学教授所の教えを固く守り、伝承して行くようにとの言葉を託して逝かれました。

新宮宮司奉務神社新宮宮司奉務神社

誤解の無いようにして頂きたいのは、近江神宮でこれまで開催してきた「お道の行法」は小笠原門下生による大和本学の行法です。現在、伯家神道を名乗っている人の系統は大和本学の系統からが多いです。

和学教授所では誰しにも行法を教えていないので継承者は少ないのが現実です。私の系統は安見晴子、新宮幸勝から指導をえた和学教授所の系統になります。

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[更新日]  永川辰男

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