Q. 神人一体とは

伯家神道のお行を修するに際して「神人一体」がある。字の如く神と人とが一体となることである。我が伝統の教えにはこの「神人一体」という言葉が残されている。その為の修行である。それ故にこのお道の行が「恐れ多い」と言われる所以である。

「我が身を神籬とする」と言う言葉が残されているが、乃ちこれが「神人一体」である。わが身に神を迎えるためお祓いであり浄めである。そもそもは、このお行は宮中神祇官斎院で行われていたもので天皇並びに皇太子、皇族に限られた祓いの場でもあった。皇太子が祝部殿でお行をなされるのも自らの体を祓い清められて、神霊の導きにより天皇霊、皇神を迎え入れるアキツミカミとしての祓いのお行である。

そこで当会では、伝統ある言葉として「恐れ多い」と言う言葉を会員皆様に確認して頂いている。このお行は遠く神代の時代より継承されているもので、原初神道の所作をどことなく残している。それこそ、超古代史の観点から面白おかしく見ると、ウガヤ朝、ウガヤフキアエズ朝と言われる時代が存在していたとすると何千年、何万年前からの古代祭祀資料である。実は私がこの行を40年数前に初めて行ったのには、この原始宗教たるものがお行で出てくることを待ち望んだものである。

それでは「神人一体」となるとどうなるのか。そこである。現在ではお道の行による現世利益、自己利益、開運、超能力を得るためとか言いながらその為のお行と勘違いされている人が多くなりました。それをそこに即繋げて貰っては、既にそこに人を導く哲学性も宗教性もなく、単なる欲に絡んだ人間の醜さを見ます。何のための祓いなのか、それこそ祓いにならないのではないでしょうか。それこそ人間としての倫理学から学ばれて神道学に入って来て頂きたいものである。

神は全知全能である、全てを見定めることができます。このお行をすることにより、「神人一体」となり、祓われることにより浄められます。それにより、自らの煩悩が消え全てを見通すことが出来るようになります。神に近づく境地を得るのです。それを「観自在」と言います。人間の持つ物欲、性欲などの欲望をもってしては、この「神人一体」の境地には到底到達できるものではありません。形式のみの行であり、神のミのない行と言えます。この方40数年間純粋に継承してきている当会では誰しもの入会を許しておりません。人それぞれ学び得るものの違いもあるでしょうから、現世利益を考えて来られている人には他会への入会を勧めています。

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[公開日]  永川辰男

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