伯王家

伯王家の歴史

神祇の始まり

神武天皇の第三子が綏靖天皇として即位され、その兄、神八井耳命が神祇を司ることにより宮中祭祀が始まります。

当時は神の託宣を行い祭祀を行う王が、天皇より上であったかも知れません。今でいう祭祀の「マツリ」と政治を表す「マツリゴト」の意味が表されています。「マツリ」による託宣・神事を受けての政治・生活そのものです。

饒速日命以来の鎮魂呪法の途絶

飛鳥時代ともなると大陸文化移入の時代となります。欽明天皇十三年に百済の王が朝廷に仏像と経論などを献上します。

その時に天皇は、拝仏の可否を群臣に尋ねます。物部尾輿・中臣鎌子は

「わが国家の天下に追うましますは、常に天地社稷の百八十神を以て春夏秋冬祭り給うことを事とす。まさに今改めて蕃神を拝み給はば国神の怒りを致さむ」

と反対論を述べます。それより仏教受容を巡って崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部、中臣両派の古代における大きな宗教の争いが生じます。

用明天皇御代に至って、両派の対立は激しくなり、天皇擁立と合わせて戦となり、この戦によって物部守屋その一族は滅亡します。是をもって「物部鎮魂呪法」も埋没してしまいます。同じく宮中鎮魂呪法を継承していた大中臣武智麿も、物部氏に加担していたので殺されてしまいます。ここに至って、饒速日命以来の鎮魂呪法は途絶えてしまいます。

死ぬ人も生き返させると言われる十種神寶のその名前だけは残っていますが、さて呪法がどのようになされていたかは判明できません。物部鎮魂呪法の神寶は吉野山中、石見、出羽、能登、諏訪、備中、備後、阿波、土佐などに隠されているとは聞きますが不明です。

伯王家の始まりと継承

物部氏は滅びますが、神祇は忌部氏、その他の氏族によって継承されていきます。孝徳天皇の御代、忌部佐賀斯が神祇頭(伯)となった事が、古語拾遺に記載されています。その後、中臣鎌足(藤原)によって、継承されたのでしょうか。忌部佐賀斯の後は、一族に継がれずとあります。

神祇伯が正史に表れるのは、持統天皇四年(690年)の天皇即位式並び、翌年の大嘗祭に神祇伯として中臣朝臣大島が「天神寿詞」に奏上しています。その後、奈良時代は中臣氏、大中臣氏、巨清氏、石川氏などによって、伯王職は継承されていき、平安時代になると、上記の氏族のほかに、文屋氏、在原氏などが任命されていき、平安中期より、白川家が明治まで世襲していきます。

京都御所京都御所

白川家とは

白川家の白をとって伯王家・伯家神道と誤解している人もいますが、白川の苗字と伯王とは別のもので、皇族賜姓で源朝臣白川と家名を名乗ったものです。

神祇伯と書いて古訓で「カムヅカサノカミ」と読んで神祇官の長官を表します。「伯」とは長男などの「長」の意です。古代より白川・忌部・中臣・卜部を神祇四姓と呼びます。

花山天皇・清仁親王

神祇官統領白川家は花山天皇の清仁親王の御子延信王から歴代白川家世襲となります。白川家祖花山天皇は花山院、花山法皇ともよばれ、冷泉天皇の第一皇子として968年出生。17歳で皇位につかれるが藤原氏の陰謀により、2年足らずの在位で19歳で譲位します。

譲位後、宮中を出て剃髪して仏門に入り出家。出家して法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三か所の宝印を納めたという伝承がある中山寺(宝塚)で宝印を探し出し、紀伊熊野で修行を行った後に、三十三の観音霊場で巡礼し修業に勤めて大きな法力を授かったと言われます。

花山天皇はその後も命を何回も狙われることとなります。1008年41歳で崩御。紙屋御陵(北区衣笠)に葬られます。

出家前に入内した女御は実家に下げられます。出家後、乳母子の中務の腹中にいた子が清仁親王です。清仁親王を「母腹宮」といいます。父冷泉上皇の猶子となり、冷泉院の五宮として親王宣下され皇族となります。中務の腹に子がなければ白川家は存在していないことになります。

写真は花山天皇が熊野山中で修行しておられた庵後に残されている宝印が納められていた石棺です。古い石塁、柱の礎石が積もった枯葉の隙間から顔を出しています。

花山天皇石棺

神祇伯の白川家世襲

白川家は、第六五代花山天皇の皇子、清仁親王の御子、延信王が第七十代後冷泉天皇御代神祇伯に任じられてから、その子康資王、孫の顕広王が伯となるに及んで、白川家に於いて任伯期間は王氏に復帰が慣例とされてきました。

以来、神祇伯はそれまでのような他姓が任じられるのでなく、白川家世襲となり、顕広王より資訓王まで51代、明治2年神祇制度改制まで続きます。白川家は、宮廷内では「半家(はんけ)」で公卿の家格では、最下位の貴族になります。王家となれるのは伯を襲名される人のみです。

白川家は神祇官長官であるがゆえに、祭祀の行法、神祇の行事などに重きを置いてきたことから、他家のような神道教義を示す著書は多くありません。

白川神道・伯家神道の誕生

室町中期より、白川家の「神祇伯王」に対して、吉田神道が「神祇長上」と言う紛らわしい言葉を使い始め台頭してきます。そして、これまで白川家が出していた全国の神職の階位、免許状をおかすようになってきます。

江戸時代ともなると、吉川惟足の吉川神道・山崎闇斎の垂加神道、など他家神道説を唱える神道家が出てきます。白川家は対抗上、白川家のお家の神道を「白川神道」と打ち立てる事になります。この時に、現代にまで唱える「白川神道」「伯家神道」という呼び名が誕生することになるのです。

他家と対抗するために、又、神祇の正当化を主張するが上に、白川家に伝わるお家の神道説・教義を整理し講義するため、敢えて学頭職を置くこととなります。

神祇伯資顕王に仕えた白川家学頭職森昌胤は、「神道通国弁義」で

「近来 吉川惟足、山崎垂加というもの、神道を以って世に鳴たる由なれども、吉川は吉田家を神祇の長上と心得て伝授を受けたる由にて・・・とやかくと評するに足らず、山崎は洛西妙心寺出にして、一変して儒者となり・・」

と吉川神道、垂加神道を批判しています。

白川家墓地白川家墓地

白川家の活躍

白川家では

「神道は万国一般の大道であり、古今不易の綱紀、神武一体法例の出所なり」
「日本の中にて神道を学ぶに、神系天子のほか、流儀という事あるべきや。伯家の流儀は即ち天子の御流儀にて神祇官とて頭なり」

と面目躍如の言葉を記しています。

白川家は神祇官の長として、宮中内侍所・神祇八神殿の奉仕・天子摂関などに御拝作法を伝授します。また祝部神戸の総支配としての管理・大嘗祭・鎮魂祭・御巫など、神祇官役職を総判することを掌ってきました。

江戸時代の伯家神道・白川家

吉田神道から神道説を学び、自ら吉川神道を樹立した吉川惟足が、江戸幕府の神道方として代々継承される一方で、伯家神道は徳川期には活動が伸びませんでした。

その理由として、幕府が朝廷を抑えるための政治的な働きが見えてきます。お公家さんでもあり、宮中祭祀を連綿と継承してきた白川家よりも、徳川家が推奨してきた仏教・儒教を取り入れた、一般からの新しい神道学説を唱える神道家を重用したのです。

復古神道

しかし、それが却って復古主義を唱える運動へとつながる原動力となります。大陸からの外来文化・思想でなく、日本本来の文化・精神を取り戻そうとする運動です。

日本本来の神道学説を唱える人が、時の風潮の波に乗って生まれます。国学者と言われる人が古典講読の解説を行う事により、それまで読めなかった日本の古典文学の解説・言霊・大和言葉などの研究が推し進められていきます。

復古主義で生まれたのが復古神道であり、「古事記」「日本書紀」の解読が進むと共に「皇道」「国学」が起き、やがて明治維新を生む原動力へと発展していきます。

白川家の終焉

宮中八神殿は室町時代の応仁の乱以後に荒廃し、吉田家では吉田神社境内、白川伯家では私邸にて奉斎されてきます。そして明治になって神祇制度改制に伴い返還されます。

平安初期より800年間続いてきた神祇伯白川家は明治維新の神祇制度改変によって神祇伯が廃止となり、伯王もなくなります。その時の最後の伯王が51代資訓王です。延信王より数えて白川家31代で伯王家が途絶えることになります。

資訓王

資訓は50代資敬王の長男です。1851年に父に代わって神祇伯に就任します。慶応四年(1868年)神祇官が復興されると有栖川宮幟仁親王と共に神祇事務局督となりました。明治2年、神祇官が太政官より独立して行政機関の筆頭に置かれることになりますが、この時に神祇制度改変と共に神祇伯制が廃止されます。その時に白川資訓は神祇大副となります。因みに神祇伯は中山忠能、三条実美です。

明治12年、八神殿の仮神殿が皇居二重橋前の広場に架設されます。それまで白川、吉田両家に奉斎されていた八神殿の霊代が奉献され、新設の八神殿に祀られます。その八神殿には八神の神と併せて皇霊と天神地祇が合わせ祀られることとなります。この際に「鎮祭の詔」「大教宣布の詔」が発せられます。

神祇官は平田学派の「祭政一致」と津和野藩派が唱える「天皇親祭」の二派に分かれていました。八神殿建立を主張していたのは平田派の人達です。しかし、明治四年、平田派の国学者矢野玄道、角田忠行、丸山作楽、権田直助は国事犯の嫌疑をかけられ追放されます。明治維新の思想を打ち立てた平田学派の人達の活躍は神祇官再興前まででした。その後の神祇官は大国隆正、福羽美静等が天皇親祭を主導することとなります。

明治五年、神祇省は廃止され祭祀業務は宮内省、式部寮が行うようになり、明治五年11月17日、宮中賢所に仮遷座され、神殿、皇霊殿が完成して、八神殿の八神は天神地祇と合わせて神殿に祀られることとなります。皇霊は賢所から皇霊殿に祀られるという、現在宮中に祀られている皇霊殿・神殿の起因となっています。伯王家でなくなった白川資訓は、神祇大掌典・式部寮御用掛を歴任して子爵の爵位を頂き、明治39年帰幽します。

白川資長

資訓の長男資長が白川家32代当主となり子爵を受け、貴族院議員・名誉掌典・神社調査会委員・神社制度調査会委員となり、戦前の神社界に貢献します。日本精神研修会会長となり「息吹永世の行法」を指導されたと聞いています。戦後は、神社本庁参与となり、昭和34年に90歳で帰幽します。

資長には実子がなく、海軍少将上野正雄(北白川宮能久親王六男)の四男久雄を養子とするも、その後離縁となり白川家は断絶となります。ここにおいて明治まで神祇伯王を世襲してきた白川家は絶家となりました。

皇居二重橋皇居二重橋

京都御所に行き、江戸時代の地図を頼りに白川邸があった場所を確認すると、白川旧邸宅は、現在の学習院大学の前身である京都学習所があった場所の近くです。学習所は1842年仁孝天皇の発意によって開設されました。

大政奉還後、慶応4年(1868年)9月3日江戸が東京に改称。同年9月元号が明治に改められ、10月13日天皇が東京に入り、明治2年政府が京都から東京に移されることにより、それまで内裏にいた公家並びに政務、祭祀に従事していた職員も天皇共に同行します。神祇官を司る白川家も東下致します。

現在は木が立ち並んで市民の憩いの場になっていますが、150年前は公家屋敷が並んでいた夢物語でもあります。和学教授所を開き、伯家神道を今に伝える高浜清七郎もこの道を往来して修業に研鑽を重ねていた場所でもあります。

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[更新日]  永川辰男

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