和学教授所

現在、日本全国でなされている古神道行法、なかんずく伯家神道は、和学教授所からの流れから分立したものが大半です。

和学教授所とは

和学教授所は、明治25年に高浜清七郎と、娘婿の宮内忠政により開設されました。神祇官廃絶とともに埋没しかねた「かむながらのお道」の幽斎神事を、今日までこの日本に残されていることは高浜清七郎の大きな功績と言えるでしょう。

高浜清七郎と白川家

高浜清七郎は白川家学頭職を預かったと言われていますが、白川家の学頭職にはその記載がない所を見ると、学頭職の補佐でもしていたのではないでしょうか。

当時の学頭職は平田鐵胤で最後の学頭職になりますが、江戸に住居していることを考えれば、高浜清七郎は京にいて白川家に身近な存在ではなかったかと思われます。白川家の世話係、もしくは学頭職補佐をして指導していたものと推察できます。

高浜清七郎と明治天皇

高浜清七郎には明治天皇にまつわる話もあります。

孝明天皇の第二皇子である祐宮睦仁は9歳で親王宣下され、15歳で天皇に即位されたところを見ると、その期間に白川邸の祝部殿で「祝部殿の御法」をなされたものと思われます。このお行は、日嗣の御子である皇太子の時に行うお行であるからして、この時期が妥当かと思われます。

明治になって天皇として初めて伊勢神宮に親拝された逸話に、内宮の大前に進まれた陛下が地面に鉾を指して参拝され、侍従の人および周りの人が慌てた話があります。

皇祖神武天皇が天照大神を鳥見山で祭祀された時と同じ態が、皇祖鎮まる聖域でなされたことは、天皇霊のなせるものではと思わざるを得ません。

伊勢神宮宇治橋伊勢神宮 宇治橋

高浜清七郎の生涯

1813年生誕~1893年没。高浜清七郎は、文化八年(1813年)に現在の岡山県総社市で農家の子として生まれます。

その後京都に出て、白川家出入りの呉服商人となりました。白川家の女人、特に祝女ハフリメとの商いの繋がりもあり、出入りするうちに白川家に御執成しを受け、門人としてお道の行をなされたのではないでしょうか。

「白川門人帳」によれば、三十歳代に「七種修行」を終えられて、門人として入門しています。

門人の中では取り分け優れていたのか、文久二年(1862年)清七郎五十歳の時に、「十種神寶御法」の相伝を受け、内侍所並びに神祇官御免状、内侍御印書を拝受したと言われています。

当時の清七郎は尊王派として奔走します。明治時代となり白川家が伯王を返還されると、清七郎は門外不出の古伝神事を後世に残さんとして、門人を民間に求め、道統を伝え、教学の絶へざらんことを発願します。

維新後の時代が落ち着いてくると、王政復古と共に白川家の神事も再興されるものと信じていたのですが宮内省からも白川家からも声がかからに無念の歌を残しています。

行く年も 便りもあらぬ 大空を 相手に暮らす 神のまにまに
高浜の 泪は神の 涙なり この日のもとに 知る人はなし

かくて当時の神道本局長稲葉正邦・大社教管長千家尊福・御嶽教管長平山省斎・修正派管長新田邦光・神習教管長芳村などに、神事秘法を教授します。明治27年の秋に黄疸を患い、翌28年2月28日逝去されます。

死後、東京の築地、神田在住の門人、有志の人達によって白金高輪の墓地に永眠。十数年前まで祥月命日には御田八幡宮の吉田宮司さんが斎主となり、墓前祭を務められておられた折には、私も参列させて頂きました。

死を覚悟しての歌なのでしょうか。

嬉しさは 実に高浜の 松の音 行く先なくて 消えにけるかな
八十過ぎる 年の重荷を 軽々と 背負うて越へる 死出の旅路は

高浜清七郎の伝承

高浜清七郎は、神道本局長である稲葉正邦・大社教管長である千家尊福・御嶽教管長である平山省斎・修正派管長である新田邦光、神習教管長である芳村などに、惟神道の神事秘法を教授しました。

その他に、清七郎と親交があった「本田霊学」「鎮魂帰神法」を確立した本田親徳がいます。本田親徳から鎮魂法を習ったのが長澤雄楯です。その弟子が大本教を開かれた出口王仁三郎となりました。

始めは高浜清七郎から出ているのです。各教派に残されている鎮魂法、幽斎神事の多くは高浜清七郎よりの伝承が大半です。

高浜清七郎の没後

高浜清七郎の没後、宮内忠政が継承するに当たり、東京より京都へ教授所を移します。京都にて明治36年、宮内忠政も帰幽されます。

継承すべき宮内新子は当時まだ16歳であった為に、その後を3代中西盾雄、4代片山源榮が継承します。そして昭和7年6月、中村新子が47歳で継承するのです。

「和学教授所」から「玉鉾会」へ

「和学教授所」と「玉鉾会」の系統を中村新子篇「和学教授所の起源と歴史」と合わせて整理すると、

  • 初代 高浜清七郎
  • 2代 宮内忠政
  • 3代 中西盾雄
  • 4代 片山源榮
  • 5代 中村新子=新宮幸勝=永川辰男(玉鉾会)
  • 6代 安見晴子=永川辰男(玉鉾会)

となります。和学教授所開設は高浜清七郎ですが、その運営は娘婿の宮内忠政によるものです。宮内忠政亡き後は高浜家とは関係なく、和学教授所は子弟によって継承されて行きます。

これが、現在伯家神道を指導する「玉鉾会」の系統の流れです。  

和学教授所に関わる人々

私の手元にある戦前、戦後を通じての「和学教授所本部役員名簿」には、総監・子爵白川資長、所長・神事長中村新子、神事長代理安見晴子、理事新宮幸勝と言った私が指導を受けた人の名前が列記されていますが、高浜浩を始め高浜家に関わる人は誰も記載されておりません。

和学教授所は高浜家と関わりなく宮内家に関わる人によって継承されてきたのです。中村新子が亡くなり、安見晴子が大病になってから「お道の行」の継承を危惧された高浜浩が新宮幸勝に相談され、それを新宮幸勝は快く受け入れられたのです。それまで自らの修業だけされていた新宮幸勝は神職の人を始め、一部の人に指導をされるようになりました。

昭和56年、新宮幸勝と和学教授所のお道の練成会開催するに当たり、会合を開いている時に高浜浩を紹介して頂きます。その後も、高浜浩とは会合並びに練成会の度にお会いして数年間御一緒させて頂きました。

又、中村新子と近江神宮で指導しておられた大和本学の小原昭子との接点はありません。小原昭子は大和本学を修業されておられた人で中村新子からの指導は仰いでおられません。小原昭子は自宅近くの京都市山科区に住んでおられた時の小笠原大和のもとに義母と共に修行なされておられたのです。

昭和50年初頭から修業している私としては、現代の伯家神道のいきさつについての証人の一人です。

和学教授所の廃絶後

現在、伯家神道行法は白川家・和学教授所が廃絶になっていらい乱立しています。

伯家神道行法を行っているところに、和学教授所の門人、和学教授所を破門された小笠原大和の大和本学があります。大本教にもいた小笠原大和は、中村新子について修業はしていましたが、失態を犯し破門されてしまいます。大和本学は、小笠原大和が破門されてから独自にアレンジしたものを行っています。

和学教授所指導とは、行法からして拍手の打ち方、祓いの仕方、祓いのあげ方、切り火の切り方など種々異なります。特に七種と六種を入れ替えています。

和学教授所では、六種は秘伝となっています。三種の行が終えられた人が秘かに与えられるもので、お行が進まれた人と言えども教授できないお行となっています。

八種・七種が人界・地上での国つ神の行で、五種からが天上・天つ神の御法として神界に入るものと分別して、その境となるのが六種です。イザナギノ命のみでなく、現世において御霊を祓い清め、日向の橘の小戸のアハギ原で禊を行っている姿が八種、七種の行法です。

自らの俗世の諸々の障り、穢れを祓いに祓いをかけて祓い清めて「タマ」を磨きに磨いて、神の御心にかなう神の世に近づくお行こそ「お道の行法」となるのです。

玉鉾会の入門許可

「白川門人帳」によれば、高浜清七郎は天保年間に「七種修業終了門人免許」を授与され、「白川門人」として入門許可されています。玉鉾会では白川家、和学教授所の古例に倣って七種をもって入門許可としています。

行法 その1

行法 その1

中村新子

古代より伝わる鎮魂呪法は、修業の段階の「お道の行法」と、「幽斎神事」とに区別されます。

宮内忠政の時までは、確実に伝承されていたものと思われますが、宮内忠政が中村新子にどこまで伝承していたかは疑問が残るところです。中村新子が16歳の時に、宮内忠政は亡くなっているからです。

宮内忠政は気学九星、易学を行った形跡があります。「神傳奥儀」には一部記載されています。中村新子女史が戦前、戦況をみるのに襖を閉めて神占を行っていたのは気学九星、易学でないかと考えています。

又、戦況の占いを見るのに、白峰神宮で「軒廊の占い」をされたと言われていますが、卜占は卜部の職掌です。伯家神道とは無関係です。「軒廊の占い」については白川資長氏も「当家では行なわない」と論述されておられます。

祝詞は「宣りあげ、宣り倒す」、祓いには「祓い切る」と言う言葉の力がありますが、祝詞、祓いの言葉の力を失ったのが今の宗教ではないでしょうか。

宮内忠政は今から100年前の人ですが、聖職者が祓い、清めを忘れると天変地異が起きる、起きても天神地祇を動かす力ができないと記載しています。まさしく言われる通りの世の中が来ています。今一度見直す言葉ではないでしょうか。伯家神道行法は言霊と音霊の働きによるものです。

その後、3代中西盾雄・4代片山源榮に伝承され、中村新子はこの両名からもお行を受けられます。そして47歳の時に、和学教授所神事長を継承しています。

昭和29年、日本全国の神職養成の為の第1回の鎮魂練成行法が石上神宮で行われています。神社本庁調査部長である岡田米夫氏を挟んで、石上神宮鎮魂行法代表として、当時の青山宮司・森禰宜(のち宮司)、伯家神道の代表として中村新子・新宮宮司が参加され、それぞれの行法を披露されました。

どちらかを神社本庁指定の練成会に採用するかを協議されます。その結果、石上神宮鎮魂行法が採用され、現在まで神道練成会として採用されています。伯家神道は一般神職には受け取りにくいと判断されたのでしょう。

石上神宮鎮魂行法は顕斎です。伯家神道は幽斎です。神社本庁とすれば幽斎には触れたくなかったのでしょう。石上神宮の森宮司と生前対談した時に、あの時に伯家神道を修業しておけばよかったと言われていました。

伯家神道についての裏話は私自身が体験した事柄、新宮宮司、当時の先輩諸兄から聞いた逸話は尽きることがありません。これまでの逸話をまとめて本にしても、後学の人達の参考になると思います。

賀茂川河畔中村新子住居近くの賀茂川河畔

吹き送りの行と入門

中村新子から多数の門弟が輩出されているように言われていますが、実際は入門に際して吟味を慎重にされ、門人を多く取られていなかったようです。

特に伯家神道独特の「吹き送りの行」を厳修され、その行をなす事により、神意に叶わない人は入門を許さなかったと言われています。

正統なる伝承を守るためにも、玉鉾会ではそれに習って入門者へは「吹き送りの行」を大切にしています。

中村新子からの言葉

私が始めてお行を受けた時には、中村新子は既に亡くなっておられたため面識はありません。それでも中村新子の息女である安見晴子とは、同県内の神職という事でよくお宅へお邪魔させて頂きました。

安見晴子には「母が生きていたらどんなに喜ばれるでしょうか。和学教授所のお道をよろしくお願い致します」と、お伺いする度に言われました。

中村新子が亡くなり、10年程して安見晴子も亡くなり、和学教授所の道統はここで途絶えてしまいます。かろうじて和学教授所理事の新宮宮司がご存命で、その教えを玉鉾会がこんにち継承しています。

中村新子の没後

近江神宮で中村新子が行っているものが継承されているように言われていますが、中村新子が行っていたのは昭和45年前後の事です。

その後、昭和56年に私が事務局として伯家神道斎修会を行っていたのは大和本学の系統です。神宮職員として事務局を担当していました。しかし、私は神宮での斎修会へは参加せずに新宮宮司の神社で和学教授所に伝わる「お道の行法」を修行させて頂きました。

皇国の神祇道

和学教授所神事長であった中村新子いわく

「和学教授所は明治25年5月、祖父高浜清七郎と宮内忠政とによって創設されたるものにして、旧神祇官統領白川伯王家に伝えられたる皇国御国体の基礎たる神祇道、即ち唯神なる古伝神事の実践実行を目的とする教授所である」

「白川家は専断持って神祇を帝室に奉還し奉ることを奏上・・我が国神祇道のため、我々道統を継ぐ者の涙なくして思は能わざる処でありまして、僭越ながら日本国家の一大損失であったと確信いたします」

と嘆かれています。

神武肇国以来、二千数百年宮中に伝えられてきたこのお道が、維新と言へども廃絶されたことは、日本国家一大損失であったと、私自身も心痛む一人です。

和学教授所の精神を唯一継承する私としては、中村新子が涙した思いを次世代に正しく継承して行きたいと考えております。

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[更新日]  永川辰男

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