当神社は、孝明天皇にわが国の永遠の御守護を賜るために、その御遺勅の勅願に従い、天皇の忠臣であった正八位旭形亀太郎によって御鎮座されました。

旭形亀太郎

 御祭神の孝明天皇は、明治天皇の父帝であらせられ、江戸時代の末期、諸外国の進攻・武家政治の終末といったわが国始まって以来の国家大危機の時代に在位されていました。この波瀾万丈の非常事態がうち続いた時代に、神仏を敬い、皇祖を尊びつつ世運の動向を明察され、生涯を犠牲にされてまでも、天皇自らが国を護り民を護りお救いになられ、近代社会への入り口ともいえる明治維新の大業の基礎を築かれました。また、孝明天皇は神仏への敬神の念が厚く、非常に祖先を尊ばれていましたので、諸社の古くからの旧儀の復興や歴代天皇の御陵を修造なさっています。こうしたことにより、御鎮座当初より、国の護り神・敬神崇祖の神・道開きの神などとして敬い仰がれています。

玉鉾神社室内

 当神社の創建者であり、初代宮司である旭形亀太郎は、勤皇・佐幕の論議が国内にやかましくなった頃、宮中警護の任に就きました。文久三年一月には勅令により、宮中警護力士隊隊長となりました。元治元年七月の蛤御門の変では錦の御旗を守り、玉座の守備にあたってその大任を特に果たしました。この至誠を孝明天皇は大層お喜びになられ、天杯・守護符その他数品と「御製」を賜りました。また紫宸殿においては「神國の秘法」を伝授され「御宸筆の経綸書」、「御旗」を托し賜りました。その御窟筆の中には孝明神宮創建に関しての御違勅が含まれており、旭形亀太郎は天皇崩御後、これに従い孝明天皇をいつきまつる神宮の造営に力を尽くしました。

お墓

 当時は創建者が民間人であるということで創建は非常に難航していましたが、明治二十年二月明治天皇が武豊の地に行幸され、武豊を舞台として行われたわが国最初の陸海軍攻防演習を天覧されたのを起に、現在の聖地を定め、私財を投じ社を造営し、明治三十二年十一月、社名も玉鉾神社ということで正式認可され孝明天皇をお祀り申し上げました。

 社殿は伊勢神宮のようなつくりで、明治三十年一月英照皇太后御大葬の霊柩に従った従五位位牌斑御牛の下賜、明治三十三年五月小松宮彰仁親王殿下公式参拝、同年八月伏見宮貞愛親王・中山二位局代拝、大原重朝正式参拝等があり、皇室をはじめとする数々の崇敬を仰ぎました。ところが明治三十四年三月創建者である旭形亀太郎が急逝したため、その後は維持努力したにもかかわらず、周囲から幾多の苦難を受け、六十年あまりを経過した時点では全く見る影もなくなりました。

神社全体古

 昭和三十九年七月、三代目宮司就任後、皇室の安泰•国家の隆昌•世界の共存共栄を祈願しつつ、年中恒例および臨時の祭典を鄭重に奉仕を行い、崇敬者の皆様と共に一歩一歩復興の道を歩み、昭和四十年+一月には、御祭神の曾孫にあたられる東久邇盛厚殿下が正式参拝されました。

 平成十年、四代目宮司が就任後、奉仕団が結成され、雅楽奉納等の奉仕を頂いています。令和元年には御鎮座百二十年を迎え、御鎮座時のゆかりから、尾張一宮真清田神社より献幣を賜り、御鎮座百二十年祭が盛大に斎行されました。

当神社は、神社本庁に属しますが、氏子を持たない総鎮守の神社です。
そのため、地元を始め、広く全国の崇敬者の皆様の浄財によって神社護持・運営がなされています。

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